第5章:精霊人形の望み

(1)

〔ジルの部屋〕

今日は接蝕日だ。

接蝕は今回で4度目になる。

でも、あの感覚に私はまだ慣れないでいた。

 

G:…………。

 

主:じゃあ、始めましょうか。

 

G:…ああ。そうだね、姫。

 

主:ねえ、ジル。

  どうしてジルはたまに私を“姫”って呼ぶの?

  私は、グロリア様みたいな貴族じゃないわ。

 

G:そう呼ばれるのは嫌かい?

 

主:…えっと…嫌っていうよりは…。

  お姫様でもないのにそう呼ばれるのは気恥ずかしいわ…。

 

G:君は可憐で、純真で、愛らしくて…私にとって宝のような女性だから“姫”と呼ぶのだよ。

  そんな、大切に守りたいと思う女性を“姫”と呼ぶのは、間違っているかい?

 

主:……………。

 

私は、頬が紅潮するのを感じた。

 

G:だが、アストリッド。君は私の可愛い“姫”であるだけじゃない。

  君は、私の崇拝すべき“女王”でもあるのだよ。

 

主:え?

 

G:人形に代わって鞭打たれる勇気。

  傷ついた人形に涙を流す優しさ。

  ……その気高い心に、私は膝を折らずにはいられない。

  アストリッド。どうかこれからも、その気高き心で…人ならぬ私を導いてほしい。

 

そう言って、ジルは膝をついた。

 

 

<翌日>

 

〔リビング〕

S:……なあ、アストリッド。

 

主:なあに、叔父さま。

 

私は叔父さまとお茶を飲んでいた。

ジルはまだ休眠中だ。

 

S:あのさ…ジルのことなんだけど。

 

主:?

 

S:アズの休暇が終わったら、彼は凍結するべきじゃないかな。

 

主:!?

 

ジルを、凍結する…?

私は、叔父さまが言っていることの意味がよくわからなかった。

 

S:アズは爺さんの件でひどく落ち込んでいただろう?

  そんなアズに笑顔を取り戻してくれたのはジルだ。

  だから僕は、彼にとても感謝している。

 

なら、なおさらどうして…!?

 

S:でも、彼はもう十分その役割を果たしてくれた。

  傷ついた人間を慰めるという人形としての役割をね。

  だから、もう彼にはただの人形に戻ってもらうのがいいんじゃないかな…。

 

ジルを、ただの人形に戻す…?

 

叔父さま、どうしてそんなことを言うの?

もともと精霊人形の復活を望んだのは叔父さまでしょう?

ジルと一緒に暮らしていて、どうして彼をただの人形に戻したいなんて思えるの…!?

 

私は混乱していた。

 

私は、叔父さまは自分と同じ思いでいるとばかり思っていた。

同じ思い…ずっとジルと暮らしていきたい、そう思っているのだと。

 

S:ずいぶん酷いことを言う…アズはそう思ってるだろ?

  自分でもそう思う。

  要するに、1度与えた命を、彼から取り上げろって言ってるんだからね。

  だけどアズ。僕は心配なんだよ。

  長く人形と生活を共にすることで、君が人形に溺れてしまうんじゃないかって。

 

主:………!

 

S:アズは人形にやさしい。それは良いことだ。

  それにアズのやさしさは、何も人形だけに向けられているわけじゃないだろう。

  でも。

 

主:でも?

 

S:…………。〔ため息〕

  アズは僕の姪だ。だから恋愛感情はないつもりだよ。

  でも、アズが人形に惜しみなく愛情を注いでいるのを見ると…なんだろうな、嫉妬を覚えるときがある。

 

主:…嫉妬?

 

S:人間にとって1番大切なのは、人間じゃないのか…ってね。

 

主:…!

  ………叔父さま…。

 

S:ごめん。なんだかヘンな話になっちゃったね。

  実はさ、僕も本気でジルを凍結したいと思ってるわけじゃないんだ。

  確かにオーナーはアズだ。

  でも、そのお膳立てをしたのは僕だから、ジルは自分の人形でもあると僕は思ってる。

  だから僕には彼の幸福を願う義務がある。アズと同じように。

  彼が生きることを望むなら、僕は出来るだけのことはしてやりたい…そう思ってるんだ。

 

叔父さま…。

 

S:でも、アズの休暇が明けたら、ジルをどうするのか考えておかなきゃなー…なんて思ってたら、ちょっと考えが脱線してきちゃってさ。

  まあ、なんだ。

  今更だけど、アズにはオーナーとしての自覚を忘れないで欲しいって、まあ、そういうことだよ。うん。

 

最後、叔父さまは明るい声でそう締めくくった。

……少しわざとらしいくらいに。

 

〔暗転〕

叔父さまも、本当はジルを凍結するつもりじゃなかったことがわかって、私はほっとした。

そして、ジルに対して私と同じ思いでいてくれることが、うれしかったし、心強かった。

 

…………でも。

あれは、おそらく叔父さまの本心だ。

 

“人形に溺れる”

 

……………。

 

叔父さま、ごめんなさい…。

私はもう溺れているのかもしれない。

彼の姿、彼の声、彼の眼差し。

すべてが、私を強く惹きつけ、強く揺さぶる。喜びにも、悲しみにも、切なさにも。

私は、人形に恋をしている。

薔薇色の人形…ジルに。

 

………でもね、叔父さま。

この気持ちは、一生胸の中にしまっておきます…。

叔父さまにも。ジルにも。

この先もずっとジルと一緒にいたいと望むなら…それがきっと1番いい。

 

私は、接蝕前に彼が口にした言葉を思い出していた。

 

ジルは私を、彼の“姫”であり“女王”であると言ったわ。

 

………………。

 

………“たぶん”だけど。

彼は私に好意を持ってくれていると思う。

でも、それは。

私が彼に抱いている感情と同じものなのだろうか。

私と同じ感情が、彼の胸にも宿っているのだろうか。

そして、この先宿ることがあるのだろうか。

人形の、彼の胸に。

 

………そう。

彼は人形なのだ。

人間に似せて作られていても…彼は人間そのものではない。

人形は。

………恋をするのだろうか。

 

…………………。

 

……ただ、確かなことは。

私が彼のオーナーであるということ…。

彼のオーナーである限り、彼は私の側にいてくれる。

そんな彼に報いるために。

私は、彼の“良きオーナー”でいなくてはならない。

それ以上の存在になろうとするのは…。

…………きっと、強欲というものね。

 

私は今、十分幸せだわ…!

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

(2)

〔街〕

駅を後にした私は、1人家路についていた。

 

お仕事で1週間ほど家を空ける叔父さまを見送りに、私は駅に行ったのだった。

 

叔父さまを見送ったのはよかったけれど。

汽車がずいぶん遅れたために、私の帰りも予定よりかなり遅くなってしまっていた。

 

ジル…心配しているかな…。

 

?:アストリッド。

 

ふいにかけられた声に私は振り返った。

 

J:…………。

 

声をかけてきたのはジャックだった。

 

主:ジャック。こんなところで会うなんて奇遇ね。

 

ジャックに会うのは、この間、家を訪ねてくれて以来だ。

 

J:…話がある。来い。

 

主:え?

 

……話って、なんだろう?

しかも、ここじゃ出来ないってことよね…。

 

J:…………。

 

〔ジャック退場〕

 

私の返事を待たずにジャックは歩き出しけれど、私は彼の言うまま、素直について行く気にはなれなかった。

 

突然抱きつかれ、抑えつけられ、「放して」と懇願しても聞き入れてもらえなかったあのときの恐怖が、私を踏みとどまらせていた。

 

……………………。

…………でも。

私はジャックを…精霊人形を信じたかった。

 

意を決した私は、先を行く彼の背中を追って歩き出した。

 

 

〔路地裏〕

ジャックが私を連れてきたのは、人気のない路地裏だった。

 

なんだか嫌な空気。

 

そう思ったけれど、今更引き返すこともためらわれる。

 

……大丈夫、ジャックは私に話があるだけだわ…。

 

私は自分にそう言い聞かせた。

 

J:昨日、俺のオーナーが死んだ。

 

主:え?

 

アーヴィン様が亡くなった…?

 

主:うそ…。この間お会いしたときにはお元気そうだったわ。

 

アーヴィン様の心は疲弊しきっていたかもしれない。

でも、健康に問題はなさそうに見えた。

 

J:死因は心臓麻痺だと聞いた。

  心臓が止まれば人間は死ぬ。

  生き続けるためには複雑なメカニズムを必要とするが、その生が終わる理由は極めて単純だ。

 

私は信じられなかった。

あのアーヴィン様が…。

 

と、ふいにあることに思い当たった。

 

主:…じゃあ、ジャックはまもなく凍結してしまうの?

 

J:……そうだ。

  俺の命を繋ぐ、俺のオーナーはいなくなったのだ。

  時間が来れば、俺はただの人形に戻るだろう。

  とはいえ、もうしばらくはこうしていられる。

  最後の接蝕は、あいつが死ぬ直前だったからな。

 

主:……ジャックは、新しいオーナーを探すつもりなの?

 

アーヴィン様が亡くなってすぐに、こんなことを言うのは不謹慎かも知れない。

でも、精霊人形にとってオーナーの問題は、自身の命そのものに関わる重大な問題だった。

 

ジャックはこのままただの人形に戻って、いつか誰かに目覚めさせられるのを待つつもりなのだろうか?

それとも、残された時間で新しいオーナーを選んで、新しい生活を始めるつもりなのだろうか?

 

J:自由のきくうちに、新しいオーナーを求める。

  ふっ。確かにそれが合理的だ。

  凍結してしまえば、俺に一切の選択権はなくなる。

  少しでも増しなオーナーを求めるならば、運に任せるよりそうすることが賢明だろう。

  ……だが。

  俺は新しいオーナーを探すつもりはない。

 

主:…どうして?

 

ジャックは自分で、その方が合理的だって言っているのに。

 

J:おまえは知らないだろうが…精霊人形には、オーナーを必要とせずに生きられる方法がある。

 

主:え?

 

J:それは、人間の魂を取り込むことだ。

 

人間の魂を…取り込む…?

 

嫌な、予感がする。

 

J:擬似魂は魂として不完全であるがゆえにオーナーとの接蝕を必要とする。

  ならば、人間の…すなわち本物の魂を取り込めばいい。

  ただ、人間の魂といっても誰でもいいわけではない。

  取り込める魂にはいくつか条件があるのだ。

  そして今、その条件をすべて満たしている唯一の人間…それがアストリッド、おまえだ。

 

主:…………!

 

そう言うとジャックは懐から短刀を取り出した。

 

J:これは“断霊剣”(だんれいけん)といって、人間の魂を取り出す剣だ。

  この剣も条件があって、使える期間が限られている。

  魂の条件、そして剣の条件。

  今、ようやく両方の条件がそろい、精霊人形の解放が可能となった。

  後は、実行に移すだけだ。

 

「実行に移す」

それは、私の魂を奪うということなのだろうか?

 

魂…。私の魂。

魂を奪われたら…私はどうなるの?

 

J:アストリッド。おまえには何の恨みもない。

  ……いや、それどころかおまえはとても面白い人間だ。

  あんな妙な感覚を与える人間は、これまでに出会ったことがない。

  そんなおまえを失うのは、少し惜しい気もするが…まあ、仕方あるまい。

  今は、人間の束縛から自由になることこそが、もっとも優先されるべきことだからな。

  自由を得れば、いつかまた、おまえのような人間に出会う機会もあるだろう。

 

彼は私を、奇妙な生き物のように捉えているのだろか。

彼の興味をそそる、目新しい対象物。

私の何が、彼の好奇心を刺激しているのか、私にはわからない。

でも今、彼は。

そんな生き物は、珍しくはあっても、代わりはいると言っているように聞こえた。

 

J:アストリッド。おまえも死にたくはないだろうが…。

  これもおまえの宿命と思ってあきらめるのだな。

 

ジャックは無表情だった。

そしてその無表情のまま、私に剣を向けた。

 

私は動けなかった。

 

私の魂で。

ジャックは自由を得て。

私は死ぬ…?

 

今、ジャックが向けている剣…あれで私は刺されるの?

そして、私は死ぬの?

そんなの…。

そんなことって…!

 

?:ジャック。

  我が姫に向けているその無礼な剣を、今すぐしまってもらおう。

 

J:………!

 

私とジャックは同時に、声がした方向に顔を向けた。

 

主:ジル!

 

そこにはジルがいた。

 

G:同じ精霊人形であっても、姫に狼藉をはたらくつもりならば、黙っているわけにはいかない。

 

J:……………。

 

しばらく沈黙が続いたけれど。

結局ジャックは剣を収めてくれた。

 

とりあえず…安心していいのかな…。

 

G:恐ろしい思いをさせてすまなかったね、アストリッド。

  サイラスの見送りには、私も同行すべきだった。

  さあ…帰ろう。私がいる限り、ジャックには指一本君に触れさせない。

 

ジルは私の肩を抱き寄せ、私はそれに従った。

 

命の危険は去って、私はほっとしたけれど…。

でもその一方で、立ち去り難い気持ちもあった。

 

どうして…こんな気持ちなのだろう。

ジャックは私を殺そうとしているのに…。

 

そう思っていたときだった。

 

J:待て。

  話は終わっていない。

 

その声にジルは足を止めた。

 

J:精霊人形にとってオーナーの護衛は、責務である以上に、自身の生の確保としての意味が大きい。おまえがその娘を守ろうとするのは当然のことだろう。

  ましてや、その娘は“面白い”からな。

  だが、俺もその娘をあきらめるわけにはいかない。

  俺たち精霊人形にとって、今が自由を得る千載一遇の機会だということを、おまえも知っているはずだ。

 

G:…………。

 

「千載一遇の機会」

人間に付き従いながら、ジャックはずっと待ち続けていたのだ。

人間から自由になる日を。

 

J:ジル。

 

G:?

 

J:おまえはいつも物わかりのいい顔をしているが。

  そんなおまえも、人間というものに心底嫌気がさしたことは1度や2度ではないはずだ。

  ……解放を望んだことがないとは言わせないぞ。

 

G:………!

 

ジルは答えなかった。

 

ジルも自由になりたいって…私から解放されて生きたいって思っているの…?

 

J:ふっ…。まあ、おまえの心中などはどうでもいい。

  だが、2人とも覚えておけ。

  精霊人形は人間よりはるかに長い時間を生きることが出来るが、その人形の器も永遠ではない。朽ち果てる時が必ず来る。

  俺は、もうこれ以上待つつもりはない。精霊人形にとっても時間は有限なのだ。

  確かに、人間は研究に値する対象だ。

  生まれながらに生命を持つ肉体は言うに及ばず、その肉体につらなる多様な感情・思考もまた、実に興味が尽きない。

  ……だが。

  一観察対象のくだらん要求を満たすために、これ以上、俺は自分の時間を使う気はない。

  ………今日のところはこれで引き下がるが…。

 

ジャックは私を見た。

 

J:俺は、必ず自由を手に入れる。

  そのためには、アストリッド、ジル。

  俺は、いかなる犠牲も厭うつもりはない。

 

G・主:……!

 

〔ジャック退場〕

 

そう言い残して、ジャックは私たちの前から立ち去った。

 

主:…………。

 

ジャックが去った後も、私たちはその場から動けずにいた。

 

G:…………。

 

ジルは何か考え込んでいるようだったし、私はまだ、今の出来事が整理出来ないでいた。

 

?:いよいよ動き出したな。

 

主:!?

 

G:!

  …イグニス。

 

振り返ると、そこに銀色の人形…イグニスが立っていた。

 

G:君は、彼に手を貸しているのかな?

 

I:人間の魂を取り出すあの剣は私が管理している物だ。

  だからあれを貸し与えたのは確かに私だが、それ以上手を出すつもりはない。

  自分の運命は自分で切り拓くものだ。

 

イグニスの声は淡々としていた。

つまりこの先、自分は傍観者を決め込むと言っているのだろう。

 

主:イグニス、教えて。

  ジャックは人間から解放されて自由になりたいって言ったわ。

  そのために私の魂が必要だって。

  そうやって解放された人形は本当にいるの?

 

I:………。

 

イグニスは私を見た。

燃えるようなルビーの瞳と裏腹な、冷たい視線。

 

と、ふいに彼は背を向けると。

首元を緩め、銀色の長い髪を掻き分け、その項を私に見せた。

 

主:!!

 

白磁のような彼の項に、ネジはなかった。

人間の隷属の証であるネジが。

そこにあるのは、うっすらとした十字型の痣だけだった。

 

主:イグニス…あなたが解放された人形なの?

 

I:そういうことだ。

 

イグニスは背中越しにそう答えると、そのまま立ち去ろうとした。

 

主:待って、イグニス!

 

I:…?

 

主:私の魂でジャックを解放出来るのなら…、ジルの解放も私の魂で出来るんでしょう?

 

G:なっ…!?

 

I:ふっ…。

  娘、おまえはなかなか利口のようだ。

  そう。もしおまえの魂でおまえの人形を解放出来るなら、自分の人形に殺される可能性がある。

 

………イグニスは勘違いをしている。

私はジルを怖れてこんな質問をしたわけじゃない。

 

G:………。〔逼迫した表情〕

 

ジルはたぶん、私の質問の意味を正しく理解している。

 

I:いいだろう。今の質問に答えよう。

  他のすべての条件を満たしていても、自分の人形を自分の魂で解放することは出来ない。

  解放出来るのは、過去に接蝕をしたことがない人形だけだ。

 

G:………。〔安堵の表情〕

 

“私の魂でジャックの解放が出来るなら、ジルの解放も出来るはずだ”

 

そう思いついた私は、咄嗟にそう尋ねたけれど。

でも、私にその勇気が本当にあっただろうか?

自分の命と引き換えに、ジルに自由を与える勇気が。

 

……わからない。

 

でも、もうこの選択肢は消えてしまった。

 

私の魂でジルを解放することは出来ない。

 

イグニスの答えは、私に迷う余地さえ残さなかった。

 

I:ジル、ジャックは本気だ。

  おまえもまた、自分のオーナーを本気で守ろうとするなら、どちらかが死ぬかもしれんな。

 

主:!

 

G:………。

 

I:解放を求めて死ぬも、オーナーの盾となって死ぬも、偏に精霊人形ゆえに…か。

 

〔イグニス退場〕

 

 

〔主人公の部屋〕

あの後、帰る道すがら私はジルにいくつかのことを尋ねた。

 

解放のこと。

ジャックのこと。

そしてジル自身のこと。

 

だけどジルは、私が知りたいことについてはっきり答えてはくれなかった。

 

家に着いてからもジルは私を避けていた。

ジルは、精霊人形の問題に私を巻き込みたくなかったのかもしれない。

 

でも、そういうわけにはいかないだろう。

ジャックは、必ず自由を手に入れると断言したのだ。

それはつまり、私の死を意味している。

 

……ジャック。漆黒の人形。

冷徹な観察者の目を持つ、黒衣の人形。

ジャックは以前、こう言っていた。

「世界の謎を解き明かすために、自分の器を使いたい」と。

そして、こうも言った。

「人形に自由はなく、人形は常に拘束されている」と。

 

人間から自由になれば。

精霊人形は、自分のために自分の時間と器を使うことが出来る。

どこにでも行って、好きなだけ時間を使い。

ジャックは思う存分、自分の探究心を満たすことが出来るだろう…。

 

ジャックは…。

ううん。精霊人形たちは。

人間の憎しみや悲しみ、あるいは暗い欲望をただひたすらに受け入れてきたのだろうか?

ジャックはあの日、理不尽な仕打ちを受けていながらまだ、アーヴィン様に従おうとしていた。

逃げることも逆らうことも出来ず、人形はただ人間に縋るより手だてがない。

精霊人形という性ゆえに。

 

あの日のジャックの虚ろな目は、接蝕のときのジルの目と重なった。

 

ジルは…私の精霊人形はどう思っているのだろう…。

 

ジャックがジルに向けた言葉を思い出す。

 

「解放を望んだことがないとは言わせないぞ」

 

ジルは、否定しなかった。

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

(3)

<翌日>

 

〔廊下〕

主:おはよう、ジル。

 

G:…おはよう、アストリッド。

 

ジルは微笑んで挨拶を返してくれたけれど。

 

G:…………。

 

どこか物思いに沈んでいるように見えた。

 

やっぱり、昨日のことが…。

 

G:……おそらく、ジャックはこの先、人間の僕になるつもりは毛頭ないだろう。

 

ジルは唐突に話し出した。

 

G:ならば、適当な人間をオーナーに戴いて、時間稼ぎをしながら君を狙うなどということはしてこないと思う。

  つまり、彼は自分の凍結までに勝負をかけてくるはずだ。

  いいかい、アストリッド。

 

主:?

 

G:君はしばらく外出してはいけない。

 

主:え。

 

G:彼は、2週間を待たずに凍結する。

  それまで身を隠していれば、それですべて終わるだろう。

  とりあえずはこの屋敷から出ないことだ。

  騒ぎにして、精霊人形の存在を人間に知られるのもよくないし、勝手がわかっている場所の方が私も君を守りやすい。

  ただ、問題は私の休眠時間だ。

  この時間帯に襲われたら、私に君を守ることは出来ない。

  もっとも、私がいつ休眠に入るか彼は知らないはずなのだから、その時間を狙って君を襲うことは出来ないはずだが…。

  この件については、考えておかなくてはならないね。

  とにかく。

  君はしばらく、この屋敷から出てはいけない。

  ……いいね。

 

〔ジル退場・ドアの開閉音〕

 

それだけ言うと、ジルは私の返事も聞かずに行ってしまった。

 

 

〔庭〕

昼食を済ませた私は、庭に出ていた。

ジルに外出は控えるように言われていたけれど、お庭くらいは出ても大丈夫よね…。

 

自分が命を狙われているなんて、まるで実感がわかなかった。

晴れわたった空は高く、今日は風さえもない。

何もかもがいつも通りだった。

 

今思えば。

ジャックは、私が解放の鍵となる人間だと知っていたからこそ、罰を受けるのを覚悟の上でアーヴィン様の命令に背いたのではなかったか。

つまり、もしも私が彼の解放と無関係な人間だったら、あのとき本当に殺されていたかもしれない。

だって、精霊人形にとって、オーナーの命令は絶対のはずだから。

 

そしてアーヴィン様も、私が人形解放の鍵となる人間であると知っていた。

 

ただこの重大な秘密を、ジャックは知らないとアーヴィン様は思っていたかもしれない。

だから簡単に命令を取り下げた。

私の存在が目障りではあっても、ジャックが解放の術を知らないなら、慌てて私を消す必要はない。

アーヴィン様だって、出来ることなら人殺しなんかしたくないと思っていたはずだわ…。

 

………………。

 

……命令を取り消した理由はともかく。

もしも本当に、私が解放の鍵となる人間であることをアーヴィン様が知っていたなら。

アーヴィン様のあの無茶な命令の意味が、少し納得出来た。

 

精霊人形は魅力的だ。怖いくらいに。

オーナーは皆こう思ってる。

“精霊人形は一生自分の側に置いておきたい”と。

 

でも、もし精霊人形が自由を手に入れたなら。

彼の命を繋ぐ“魂の提供者”という特別な立場を失ったなら。

彼は自分の元から去ってしまうかもしれない。

…………そんなのは嫌だ。

もしその可能性があるのなら、その芽を摘んでしまいたい。

そう思っても不思議はなかった。

 

だって、私自身がそう思うから。

ただ、さすがに私には、冗談でも人殺しを人形に命じる度胸はないけれど。

 

私は苦笑した。

あの日、アーヴィン様を酷いオーナーだと思ったけれど。

オーナーの特権を使って、ジルを自分に縛りつけておきたがっている私だって似たようなものだ。

この気持ちをジルが知ったら、彼は私を軽蔑するだろうか…。

 

G:外に出てはいけないと言っておいたはずだよ、アストリッド。

 

いつしか私の背後にジルが立っていた。

 

主:あの、お庭くらいいいかなって思って…。

 

G:姫、君の命がかかっているのだ…どうか屋敷に戻って欲しい。

 

主:ごめんなさい…。

 

ジルは本気で私の心配をしてくれている。

なんだか浮ついた気持ちでいる自分が申し訳なかった。

 

G:…さあ、気分転換はもう十分だろう。屋敷に戻ってくれるね?

 

主:ええ。

 

?:待て。

 

G:!

 

主:ジャック!

 

振り向いた私たちの視線の先には、ジャックが立っていた。

 

J:…ジル、取引だ。

 

G:取引?

 

J:ジル、おまえも凍結を嫌うからこそ、その娘をかばっているのだろう。

  ならば、代わりのオーナーを用意すれば問題あるまい。

 

ジルに、新しいオーナー…?

 

J:おまえのものを譲れと言う以上、その義務があると俺は考えている。

  ………もっとも。

  代わりといっても、そいつのような“面白い”娘は、そうはいまいが…。

 

言ってジャックは、ちらりと私を見た。

 

J:似たような条件の娘ならいくらでもいるだろう。

 

………!

 

G:……ジャック。はっきり言っておく。

  私は、彼女以外のオーナーを戴くつもりはない。

 

……ジル!

 

J:………そうか。

  交渉の余地はないということだな、ジル。

  俺としても同じ精霊人形であるおまえと剣を交えるのは本意ではないが…仕方あるまい。

 

そう言うとジャックは懐から何かを取り出し、その手を軽く振りおろした。

すると。

 

主:!?

 

握られた指の隙間から強い光が四方に溢れ出した。

でも光はすぐに収まり、代わってジャックの手にはナイフが握られていた。

 

G:私も、出来ることなら君と争いたくはない。

  だが、君も退けないのだろう。

  ならば…受けるしかあるまい。

  君が私のオーナーに剣を向けるなら、私は、彼女の人形として、彼女の盾となろう。

 

見るとジルの手にも剣が握られている。

 

剣先を互いに向けたまま、2人はしばらく睨み合っていた。

 

でも、ジルがわずかに動いたのを合図に、それは始まった。

 

ぴたりと目を合わせたまま、2人は同時に、並んで走り出した。

 

速い!

 

2人はまるで、薔薇色と漆黒の獣のようだった。

 

2人は剣をぶつけ合い、離れ、再びぶつかり合った。

鋭い鍔迫り合いの音と、地面を蹴る乾いた音が辺りに響く。

 

人形たちのその素早さ、そのしなやかな肢体の動きに、私はいつしか目を奪われていた。

人形たちの剣術は、人間のそれを明らかに凌駕していた。

 

「精霊の力」

ジルを修理した日、ウィルが口にしたこの言葉を私は思い出した。

人間を上回る身体能力。そして2人が手にしているあの剣。

まるで手品のように取り出されたあの剣も、おそらくその「精霊の力」と無関係ではないはずだ。

私は初めて見る人間を超えた精霊人形の力に、ただ目を見張るばかりだった。

 

J:…!〔苦しげな表情〕

 

G:……。

 

ジルの方が押してる…!

 

最初、2人は互角に見えた。

でも、今は違う。

ジルの方がジャックより強いのだ。

このままじゃ…。

 

「どちらかが死ぬかもしれない」

イグニスの言葉が、私の脳裏に甦った。

 

「精霊人形も、決して不死身じゃない」

そしてウィルの言葉も。

 

死ぬ。精霊人形が死ぬ。

精霊人形が、精霊人形の手によって死ぬ。

 

と、そのとき。

一際高い金属音が空に響いた。

 

J:っ!!

 

ジャックのナイフが、ジルの剣によって弾き飛ばされていた。

 

武器を失ったジャックの喉元に、ジルの剣の切っ先が向けられる。

 

もし今、ジャックが私を諦めると言えば、ジルは彼を許すだろうか?

 

…ううん。それはない。

 

武器を奪われ、刃を喉元に突きつけられていてなお、ジャックはその目に戦意を滾らせていた。

戦意を失っていないジャックを、ジルが許すことはないだろう。

 

ジャックは、今日ここで死んでもかまわないと思っているのかもしれない。

この先、人間の奴隷として生かされるくらいなら、賭けに敗れて命を落とす方がまだましだと。

 

じゃあ、このまま…?

 

………………。

 

……………………。

 

私には、昨日から考えていたことがあった。

 

今、私は、その気持ちを固めた。

 

主:ジル!

 

私は叫んだ。

その声に2人が同時に私を見る。

 

…大丈夫。ちゃんと…言える。

 

主:ジル。剣を納めて。

 

G:……何故…。

 

主:もう1度言うわ。

  ジル、剣を納めて。

 

私は、出来る限り毅然とそう言った。

 

G:…………。〔ため息〕

  …君が命じるなら…従わないわけにはいかないね。

 

ジルは不服そうだったけど、とにかく剣先を下ろしてくれた。

 

J:…………?

 

ジャックは、訝しげにこのやりとりを見ている。

 

私は1つ深呼吸をした。

大丈夫。ちゃんと言える。

 

主:ジルも、ジャックも聞いて。

 

私は2人の顔を見た。

 

主:私の魂を、ジャックにあげるわ。

 

G・J:!?

 

主:私の魂を、ジャックにあげる。

 

私は、さっきよりゆっくりと言った。

 

G:……君は、魂を譲るということを、正しく理解しているのかい?

  魂を譲るということは、命を譲るということ…つまり、君は死ぬということだ。

 

主:わかってる。わかってて私は言ってるの。

  ジャックに魂をあげるって。

 

G:……………。〔苦悶の表情〕

  ……君は、清らかで、心のやさしい人間だ。

  おそらく…今の言葉は、嘘ではないだろう…。

  君は、精霊人形のために、その命を捧げてくれると言っているのだね。

 

……ジル。

 

G:だが、アストリッド。

  君が死ぬというとこは、私も死ぬということだ。

  私に少しでも情けをかけてくれるなら…今の言葉は撤回して欲しい。

 

………ありがとう、ジル。

私の命を惜しんでくれるのね。

“凍結”は“死”に似ていても、“死”そのものではないわ。

 

J:アストリッド。

  おまえの真意は量りかねるが…どの道ジルが許さんだろう。

 

そう言って、ジャックはジルを見た。

 

G:そうだね、ジャック。

  姫が何と言おうと…。

  その考えがどれほど尊く、美しいものであろうと…。

  私は彼女を失うわけにはいかない…!

 

ジルは剣の柄を握り直し、再びジャックにその剣先を向けた。

 

J:ふっ…ジル。

  おまえがオーナーに背くなど、珍しいこともあるものだ。

  オーナーが自らの死を望んだとき、人形はその願いを叶えるのが正しいのか、それを阻止するのが正しいのか…どうなのだろうな?

  なかなか興味深いテーマだが…。

  つまりは、「続行」ということだな、ジル。

 

ジャックは会話を続けながらも、目線は自分の弾かれたナイフを探していた。

おそらく、ジルの隙を窺っているのだろう。

それに、私の言葉も信用していないのかもしれない。

 

主:大丈夫よ、ジャック。もうこれ以上、2人が争う必要はないわ。

  だって、精霊人形には“あの日”があるもの。

 

G・J:………?

 

G・J:!!

 

ジルの顔色が変わった。

 

ジャックは、かすかに笑った。

 

2人は同時に、私の考えを察したようだった。

 

J:…確かに、おまえが協力するなら、俺は“あの日”を利用出来る。

 

“あの日”それは“接蝕日”。

人形が人形に戻る日。

 

主:ジャック、ジルの接蝕日は明後日、午後11時が限界時間よ!

 

私は早口で叫んだ。

限界時間。器から魂の流出が始まる時間だ。

人形とオーナーはこの時間を接蝕の目安にしている。

…もう、後戻りは出来ない。

 

G:!!

  …アストリッド…何故…!!

 

J:いいだろう。おまえを信用する。

  では、明々後日の夜明け、レインフォーヴの丘に来い。

  そこで待っている。

 

〔ジャック退場〕

 

私にそう言葉を投げると、ジャックは軽く身を翻してナイフを拾い、そのまま私たちの前から走り去った。

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

(4)

〔公園〕

M:私、何か飲み物を買ってくるわね。

  あ、アストリッド、あなたはここで待ってて。

  あなたの分も買ってくるから。

 

〔モニカ退場〕

 

モニカを見送って、私は1人ベンチに座った。

今日この公園の広場ではミニコンサートが催されていた。

 

誘ったのは私の方。

モニカは突然の誘いに少し驚いていたけれど、喜んで付き合ってくれた。

今はもうコンサートは終わり、広場に残っている人は数えるほどだった。

 

ジャックがやって来たのは昨日のことだ。

 

あの後。

ジルは、とても苦しんでいた。

 

ジルはさまざまな言葉で、私を思いとどまらせようとした。

だけど。

私の意志を曲げることは出来ないと悟ると、彼は目を閉じ押し黙った。

ジルの、あんな苦悶の表情は見たことがなかった。

 

M:お待たせ。はい。

 

主:ありがとう。

 

私はモニカからジュースを受け取って、一口飲んだ。

 

M:……ねえ、アストリッド。

  あなた…何か悩み事があるんじゃない?

 

主:え?

 

私はぎくりとした。

 

M:もしそうなら、お願い、私に打ち明けて。

  私がどのくらい役に立てるかわからないけど…でも、お友達でしょ?

 

モニカ…。

 

M:もしかして、亡霊みたいなあの人のことじゃない?

  ねえ、そうでしょ!?

 

主:…違うわ。ジルは関係ない。

 

嘘。…でも、本当のことなんて言えない。

 

主:昨日よく眠れなくて。

  やだな、私、そんなに疲れた顔してた?

  もう、そんな心配しないで。本当になんでもないんだから。

 

私はモニカに笑って見せた。

 

M:……………。

  わかったわ。でも、これだけは忘れないで。

  あなたは私の大切なお友達だってこと。

  だから話をしたい気持ちになったら、いつでも打ち明けてね。

 

主:…ありがとう。

 

モニカはたぶん、私が隠し事をしていることに気づいてる。

気づいていて、今はそっとしておいてくれると言っているのだ。

……ありがとう、モニカ。

最後にこうして会えて、本当によかった。

 

 

〔リビング〕

公園から戻った私はリビングにいた。

 

今、お屋敷は静まり返っている。

 

叔父さまはお仕事で出張中。

 

ジルは、朝から姿を消していた。

 

私の意向に逆らって。

魂の譲渡を阻止しようとしているジルは、たぶん。

私を恐れている。

彼を強制凍結出来る私を。

もっとも接蝕日でもないジルから、力ずくでネジを抜けるとは思えなかったけど。

でも、「強制凍結する力」を持った私が側にいては、彼は落ち着かなかったに違いない。

 

そしておそらくジルは今、ジャックを追っている。

自分の限界時間が来る前に、ジャックを捕まえることが出来れば…そう考えているのだろう。

武術ではたぶん、ジルの方が上だ。

………だけど。

もしかしたらジルは、ジャックを倒すというよりも、足止めをする方法を考えているのかもしれない。

ジャックが凍結するまで彼を私に近づかせなければ、それでジルの目的は達成出来るのだから。

 

そしてそれは、ジャックも同じで。

命まで奪わなくてもジルを抑え込められさえすれば、望みのものは手に入る…そう考えて彼に挑んだのではなかったか。

 

相手も自分と同様、命がけで臨んでくることを知っていたからには、本当に“最期”までやらざるをえない事態も、状況によってはありえると2人は考えていたはずだ。

だけど、出来ればそんなことはしたくないと思いながら、2人は剣を交えていたに違いない。

 

だって、同じ精霊人形同士。

人間との関係とはまた別の、実の兄弟のようなかけがえのない仲間だわ…。

 

争う人形たちに2人の意志の固さを感じた私は、本当にどちらかが死んでしまうのではないかと、昨日は居ても立ってもいられない気持ちだったけれど。

冷静になって考えれば、器の損傷は避けられなかったにしても、本当にどちらかの命が失われる危険は小さかったのかもしれない。

 

……でも。仮に、この想像が当たっていたとしても。

やっぱり、あのときジルを止めてよかった。

もうあれ以上、私は精霊人形同士が傷つけ合うところを見たくなかったし。

もしあのまま続けていたら、ジルによって絶たれてしまっていたはずだ。

ジャックの望みも。私の願いも。

 

…………………。

 

ジャックを封じる方法はともかく。

身を隠したジャックをこの2日間で見つけられるかが、ジルにとって最大の問題のはずだった。

 

2人がどこで何をしているかはわからない。

今、私に出来るのは、ただ待つことだけだった。

 

 

〔夜・主人公の部屋〕

手紙を書き終えた私はペンを置いた。

手紙は叔父さまに宛てたものだ。

 

叔父さまの心配は的中してしまった。

私は、人形のために命を捨てようとしている。

叔父さまが今いないことは、私にとって幸運だった。

いないからこそ、私は魂を人形に差し出すことが出来る。

叔父さまは、ジルとは…私の人形とは違う。

叔父さまがいたら、きっと私は止められていただろう。

 

手紙にはこれまでの経緯と精霊人形への思いを書いた。

 

……どうか私の気持ちが、ちゃんと叔父さまに届きますように。

 

そう祈って、私は封をした。

 

 

<翌朝>

 

〔リビング〕

私は1人で朝食の用意をし、1人で朝食をとり、今1人で、お茶を飲んでいる。

 

ジルはまだ戻らなかった。

 

ジル…。

…会いたい…。

 

解放のことも、ジャックのことも、明日には自分がこの世からいなくなるということも、不思議なくらい今は頭になかった。

 

ジルに会いたい。

…一目でいいから、ジルに会いたい…。

 

その気持ちだけが、私の胸に募っていた。

最後にジルに会うことが出来れば…私はきっと幸せな気持ちで、すべてを諦めることが出来る。

 

でも、たとえジルが私の元に戻らなくても。

一目会うことが叶わなくても。

私はジャックとの約束を果たさなくてはならなかった。

 

 

〔夜・リビング〕

夏の夜は短い。

でもその分、濃密な闇が辺りを包んでいた。

 

限界時間の午後11時まで、すでに1時間を切ろうとしていた。

接蝕は限界時間およそ8時間前からすることが出来る。

だからこんなにぎりぎりまで接蝕をしないことは今までなかった。

 

ジルは大丈夫なのだろうか?

限界時間が近いこの時間帯、魂の定着力はかなり低下しているはずだ。

つまり、今、ジルの精神は著しく不安定になっているということになる。

 

私は、アーヴィン様に虐げられていたときのジャックを思い出していた。

もしもジルがあんな状態だったら、ここへ帰ろうにも帰って来られないかもしれない。

 

道に迷って、そのままここへ戻れなかったとしたら……?

もしかしたら、もう体の自由がきかなくなっているのかもしれない…!

…どうしよう…捜しに行かなきゃ…!

…ううん。ダメ。ここを動いたらダメだ。ジルが戻ったときに、私がいなきゃダメだもの。

ああ、でも…、どうしたら…!

 

〔ドアの開閉音〕

 

主:ジル!?

 

私は玄関へ駆け出した。

 

 

〔玄関(内)〕

G:…………。〔無表情〕

 

主:ジル!

  …よかった。心配してたのよ…。

 

G:…………。

 

ジルはぼんやりしていた。

あの日のジャックのように。

 

ああ、もう時間が…そうよね。

 

ジルはもう、ぎりぎりなのだ。

どこまで行っていたかはわからないけど、ここへ戻ってくるだけで精一杯だったに違いない。

 

主:すぐに始めましょう。ね?

 

言って私はジルの手を取った。

だけど。

 

G:…!

 

彼は、私の手を振り払った。

 

主:ジル…!?

 

G:…始める?何を?

 

主:何って、接蝕を…。

 

G:…君は、私を捨てるつもりなのだろう?

  ならば、接蝕など必要ないはずだ。

 

……!

 

G:人間にとって人形は、結局のところ「所有物」だ。

  売り払って金銭に替えることも、誰かに譲渡することも、オーナーの自由。

  人間は気まぐれで人形に命を与え、また気まぐれで人形を捨てる…。

 

虚ろな眼差しでそう話すジルの声に、感情的な抑揚はなかった。

 

G:しかし、それもいいだろう…。

  人形にとってオーナーは所詮、「生きる糧」にすぎない。「糧」に「糧」以上の意味を求め、執着するなど愚かなことだ…。

  それに、人形が人間より長い寿命を持つ以上、オーナーとの別れは必定…。私のオーナー、アストリッドとも、いずれ別れる宿命…。

  ならば、その日が早まったところで、何の問題もない。

  また別の人間が私のオーナーとなり、私を生かすだろう。…これまで、そうであったように…。

 

……!

これがジルの本心なの?

 

ジルとの別れを決めたのは私。

だから、私に彼を冷たいと責めることは出来ない。

出来ないけど…。

私の知っているジルは、こんな言葉を口にするような人形じゃなかった。

私は、やさしいジルしか知らない。

 

……………。

…でも。

 

きっと、私の知らない顔をジルは持っているのだ。

人間とは違う「生」を生きている、精霊人形ジル。

この先、ずっと彼と共にいられたら、彼の別の顔を知ることが出来ただろうか…。

 

G:………。〔突然、苦悶の表情〕

 

と、突然、ジルの表情が崩れ。

同時に、私の両肩はジルの大きな手につかまれていた。

 

主:!?

 

痛い。

自分の肩をつかむ力の強さに、私は驚いた。

 

G:…いや、違う…。

  違う!そういうことではない…!

  私は…私は、君を失ったら生きてゆけない。

  君は私にとって、この器に命を満たすだけの存在ではない。

  …命を宿す価値を与えてくれる存在なのだよ…アストリッド!

 

………ジル…。

 

G:そんな君を失ってなお、生きてゆかねばならないなら、生きることは私にとって拷問でしかなくなるだろう…!

  だから、アストリッド。

  どうしても私を捨てるというのなら…もう私が誰の手にもわたらないよう、この器を君の手で処分してくれ…!

 

言いながらジルは、私を乱暴に揺さぶった。

目は…本当に私を見ているのだろうか?

まるで何も見ていないようで、怖かった。

 

主:ちょっ…ジル…!

  ジルっ!やめてっ!!

 

G:……!

 

私の叫びに、ジルの動きがぴたりと止まった。

私の肩を痛いほどにつかんでいた両手のひらから力が抜け、彼の両腕はだらりと下げられた。

無言で私をぼんやりと見つめているジルは、さっきまでの激昂が嘘のように静まり返っていた。

 

主:………?

 

正直、意外だった。

たった一言で、あんなに取り乱したジルを止められるなんて…。

 

そう考えて私ははっとした。

そうだ、ジルは今、いつものジルではないのだ。

今のジルは、接蝕を求める“魂の意志”に、心の大部分を支配されている。

今、オーナーである私の言葉は、彼を自分の意のままに出来る“力”を持っているはずだった。

 

主:ジル…落ち着いて…。

  これから接蝕を始めるわ。だからお願い、屈んで。

 

G:……っ!

 

ジルは、屈もうとはしなかった。

 

器はオーナーを強く求めているはずだ。

早く接蝕しなければ、精霊人形はただの人形に戻ってしまう。

だけど、ジルの意志はそれに抗っていた。

ここで接蝕をしてしまったら、もう自分は何も出来ない。

混濁した意識でもまだそれがわかるのだろう。

 

ジルは、私を引き留めようとして苦しんでいた。

 

…私に出来ることは、1つしかなかった。

 

主:……ジル。

  …屈みなさい。

 

命令口調は嫌い。特に精霊人形には。

でも。

 

G:……!

 

私は、もう1度言った。

 

主:屈みなさい、ジル!

 

G:………。

 

ジルは、苦悶の表情のまま、ぎこちなく体を屈め…そして片膝を床についた。

琥珀の瞳が私を見つめる。縋るように。

 

主:………!

 

胸に、痛みが走った。

胸が、痛くて…言葉が、言葉にならなかった。

 

…でも、今。今、伝えなきゃ。

ジルに私の気持ちを…。

 

主:………ねえ、ジル…聞いて。

  精霊人形の復活は叔父さまの願いだったけど…本当はそれだけじゃなかった。

  私はここにやってくる前…ちょっといろいろあって、人が信じられなくなっていたの。

  それまでは人を信じるのは当たり前のことだと思っていたけど、それが出来なくなってた。

  だから、もし、私のすべてを受け入れ、私にすべてを差し出し、私のためにひたすら尽くしてくれる存在がいたら、どんなにいいだろう…そう思って私はあなたを目覚めさせた。

  でもね、ジル。

  それは間違ってた。

  だって、精霊人形は“心”を持っていたもの。

  人間のそれと同じように、誰も支配出来ない“心”を。

  確かに人形の魂を握っているオーナーは、人形の行動を支配出来る。でも、それは“心”そのものじゃない。

  だけど…。

  だけど、精霊人形が心を持っていたからこそ…私は、あなたが…、ジルが好きだった。

 

G:…………。

 

主:ごめんなさい、ジル。

  私も、結局はオーナーの立場を利用してあなたを服従させてる。

  こんなことをさせられて…怒ってるわよね。

  でも…それでももし、私の最期のお願いを聞き入れてくれるなら…。

  ジル、この先はどうか、叔父さまの人形として生きていって…。

 

G:…………。

 

ジルは、ただぼんやりと私を見上げていた。一切の感情を失った、虚ろな瞳で。

 

……そんな彼の耳に、心に。

私の言葉は…思いは届いただろうか…。

 

主:ジル…ありがとう。

  あなたに会えて、本当によかった。

 

私は、ジルの冷たい額にそっと口づけ。

 

そして、左手のひらを彼の額に押し当てた。

 

 

第6章