第3章:精霊人形という身上

(1)

〔街〕

私は1人、街を散策していた。

 

お店やオフィスが立ち並ぶこの通りを行き交う人は多く、街は賑わっていたけれど、散策にふさわしいのどかな空気もどこかしら漂っていた。

 

叔父さまのお屋敷に来たのが4年ぶりなら、この街を歩くのも4年ぶり、ということになる。

 

おぼろげな記憶と目に映る景色を照らし合わせながら、私は足の向くままに歩き続けた。

 

休眠を終えたジルは、いつものジルに戻っていた。

朝晩の挨拶に添えられる優雅な微笑み。言葉を交わすときの穏やかな眼差し。

そこに接蝕日の、あの物憂げな様子はどこにも見られなかった。

 

接蝕は、私にはとても不思議で奇妙な体験だったけれど、精霊人形のジルにとってはごく当たり前の行為だからだろう。

目を覚ましたジルが、あの行為について何か口にすることはなかった。

 

私は元に戻ったジルにほっとしながらも、あの物憂げなジルにも、なんだか、少し、心が動かされた。

 

……なんて、思っちゃダメかな?

だってあの日は、本人の意志がうまく働かない特別な日なんだから、そんな風に思うのはいけないのかも…。

 

そんなことを考えながら歩いていると、シロップの入った瓶と果物を並べた露店が目にとまった。

 

……ちょっと、喉が渇いたな…。

 

私はそこで、レモネードを買った。

 

店先に並べられた椅子にかけ、私はレモネードを飲みながら通りを眺めていた。

 

足早な人、立ち止まっておしゃべりしている人、重そうな荷物を抱えた人。

子供たちは笑い声を立てながら駆け回り、馬車が走り抜けて行った。

 

主:!

 

私は人波の中に、際立って美しい横顔を見つけた。

 

ジャック(以下J):…………。

 

それはジャックだった。

 

J:……。〔主人公と目が合う〕

 

と、ジャックも私に気づき、こちらへ歩いてきた。

 

J:アストリッド。

  ここで何をしている。

 

主:えっ?

  …えっと…お散歩よ。

 

いきなりの詰問口調に、私はしどろもどろになった。

 

J:散歩?

  目的もなく、ただぶらぶら歩いているというのか?

 

………………。

敢えてそう言い換えられると、なんだかお散歩が時間のムダに思えてくる…。

 

主:…ええ、そうよ。

  ジャックは?今日は1人なの?

 

J:そうだ。

  アーヴィンは今、家庭教師の元で勉学中だ。

 

主:そう。夏休みなのに大変ね。

 

J:夏休み?…あいつに夏期休暇などない。

 

主:え?

 

J:あいつは学校には通っていない。

  体調不良を理由に自宅療養中なのだ。

 

主:そうだったの?

  私、てっきりアーヴィン様は学生をされていると思ってたから。

  ………でも、そうね。

  お茶会のときも、あまりご気分がすぐれないご様子だったものね…。

 

ジャックの陰からあたりをうかがっているような、アーヴィン様のおどおどした姿を私は思い出していた。

 

J:おかげで俺は四六時中あいつのお守りだ。

  俺が自由になれるのは、あいつが家庭教師の元で勉強をしている時間と、眠っている時ぐらいのものだ。

 

主:…そう。ジャックも大変そうね。

 

ジャックのオーナーであるアーヴィン様は、決して悪い方には見えなかったけれど。

ただ、とても繊細そうで、側に仕えるジャックには人知れぬ苦労がありそうに思えた。

 

J:……………。

  今更だが、人形とはつくづく不自由なものだ。

 

主:?

 

J:人形が生きるためには接蝕が不可欠だ。

  それはつまり、オーナーから時間的にも距離的にも、長く、遠く離れては生きられないことを意味する。

  そして、オーナーによって生かされている以上、人形はオーナーにその代償を払わねばならない。

  つまり、俺はこの器を俺自身のためではなく、俺の所有者であるアーヴィンのために使わねばならないのだ。

  人形に人間のような自由はない。人形は常に人間に拘束されている。

 

…ジャック。

 

J:世界は謎で満ちている。どれほど時間をつぎ込もうと、到底明かしきれないほどの謎で、世界は覆われているのだ。

  俺はこの器を、その解明に使いたいが…。

  …ふっ。俺がこの器を使うのは、もっぱらオーナーのくだらん要求を満たすためだ。

 

ジャックはそう言って冷たく笑った。

 

私は、ジルが自分の側にいてくれることを、ごく自然なことのように思っていたけれど。

私がジルを生かすということは、ジルを拘束していることでもあるのだろうか…。

 

そのとき。

一台の馬車が私たちの前で止まった。

 

J:アーヴィン。

 

馬車にはアーヴィン様が乗っていた。

 

アーヴィン(以下I):さ、さがしたよ…ジャック。

  ど、どうして黙って出掛けたの?ねえ?

 

…アーヴィン様、少し怒っていらっしゃる?

 

J:家庭教師はどうした?

  授業が終わるには早すぎるだろう?

 

I:せ、先生に急用が出来たとかで、授業は急遽中止になったんだ。

  ねえ、それより、ど、どうして彼女と一緒にいるの?

 

そう言ってアーヴィン様は私を見た。

不安と嫌悪の混じった目が私を見つめる。

 

……アーヴィン様…?

ジャックと少し話していただけなのに、どうしてそんな目で私を見るの…?

 

J:こいつと会ったのは偶然にすぎん。

  とにかく屋敷に戻ればいいのだろう?

  ではな、アストリッド。

 

手短に別れの言葉を告げ、ジャックは馬車に乗り込もうとした。

そのとき。

 

I:……ねえ、アストリッド。

  き、君もおいでよ。きゅ…急に暇が出来ちゃって…ぼ、僕、ちょっと退屈してるんだ…。

 

主:え?

 

突然のお誘いに私は驚いた。

だって。

 

I:………。〔あきらかな作り笑い〕

 

アーヴィン様は笑っていらしたけど。

本心から歓迎してくださっているようにはとても見えないわ…。

……どういうおつもりなの?

 

I:ねえ…い、いいよね、アストリッド。

  い、嫌なんて…言わない、よね?

 

私に、お誘いを断る理由はなかった。

 

 

〔ベックフォード邸・応接間〕

私は応接間に通されていた。

 

主:……………。

 

お茶会の日も緊張していたけれど。

今、私が感じているのは、あのときとはまた違う緊張だった。

 

I:……………。

 

アーヴィン様は私の正面に座っていた。

 

J:……………。

 

ジャックは、アーヴィン様の脇に控えていた。

 

I:……ねえ、アストリッド。

  き、君は精霊人形のことをどう思ってるの?

 

…………?

 

「精霊人形をどう思っている?」

 

“どう”って……。

 

私は、ジルを思い浮かべた。

 

優雅で穏やかなジル。

 

洗練された仕草で私をエスコートしてくれるジル。

 

人々の注目を集めずにはいらなれないジル。

 

薔薇のように、美しく艶やかに微笑むジル。

 

接蝕日の物憂げなジル。

 

ただの人形のジル。

 

………………。

 

“人形をどう思っている?”

 

どう答えたらいいのだろう…。

 

私にとってジルは…。

 

私はジルを…。

 

主:……………。

 

I:こ、答えられないの?

 

アーヴィン様は、答えあぐねている私にしびれを切らしたのだろうか。

私より先に口を開いた。

 

I:じゃ、じゃあ、僕が教えてあげるよ。

 

……?

 

I:せ、精霊人形はね、人間の奴隷だよ。

 

主:…!?

 

J:……………。

 

I:ぼ、僕たち人間をはじめ、命あるものはすべて神様がお創りになったものだよね。

  い、犬・猫・馬・鳥・魚……虫や植物にいたるまで。

  つ、つまり、すべての生き物は、神様によって生命を与えられているという点においては平等だよ。

  で、でも、人形は違う。

  に、人形は、その器も、魂も、人間が人間のために作ったものなんだ。

  だ、だから、彼らは、家畜や虫けら以下…彼らに、生命の尊さなんて認められない。

  う、生まれながらの奴隷なんだ、に、人形は。

  ねえ、そう、そうだよね、ジャック。

 

J:……人形は、オーナーの支配下に置かれている。

  支配されるものを奴隷と呼ぶなら、その呼び名も間違いではないだろう。

 

主:…………!

 

“人形は人間の奴隷”

 

なんて…。

 

なんて、嫌な言葉だろう。

 

……………。

 

…………………。

 

…アーヴィン様は。

 

アーヴィン様は、男爵子息で。

悪意のある方ではないと思うけど。でも、なんだかお心が不安定でいらっしゃる感じがして…それが、正直、ちょっと怖くて…。

 

……でも。

 

主:アーヴィン様。私は…違うと思います。

  私は、人形を人間の奴隷だなんて思いません。

 

I:……………。

  き、君さ、ぼ、僕を否定するの?

 

主:え?

 

I:……ふふふふ。

  き、君も、僕のこと、見下してるんだ。

  ぼ、僕のこと、なんにも知らない、なんにも出来ないヤツだって…。

 

アーヴィン様?

……どうなさったの?

 

主:…そんなつもりは…。

  私はただ…精霊人形を奴隷だなんて思えない…それだけです。

  決して、アーヴィン様を侮辱したわけでは…。

 

I:でで、でも、君は僕と違う考えなんだよね?

  ぼぼ、僕のこと、間違ってるって言いたいんだよね!?

  ねえっ!?

 

主:そのっ…それは…。

 

どう答えればいいのかわからない。

アーヴィン様を侮辱する気持ちは微塵もない。

だけど、取り乱し始めたアーヴィン様に、なんと言ったらわかってもらえるの…?

 

I:…み、みんなそうだ…み、みんな僕のことを見下してる。

  き、君だって、おとなしそうな顔して、腹の中では僕のこと笑ってるんだよね?

  バ、バカでだらしのない、どど、どうしようもないヤツだって。

  そ、そうだよ…そうに決まってる…!!

 

そう声を荒げるアーヴィン様はとても怖かったけれど。

同時にとても痛々しかった。

アーヴィン様は、普段、何不自由ない暮しをされていても、本当はとても孤独な方なのかもしれない…。

 

I:………ね、ねえ、ジャック。

 

J:何だ。

 

I:…そ、その子を、こ、殺してよ。

 

主:え?

 

J:アーヴィン、今、何と言った?

 

I:ジャック、そそ、その子を殺してよ、い、今すぐに!

 

J:……………。

  ……何故、この娘を殺さなくてはならない?

  殺人は重大な犯罪だ。軽々しく命じてよいことではないだろう。

 

I:そんなことわかってるよ!

  でで、でもっ!ぼ、僕はその子が気に入らないんだ!

  はっ…早くその子を殺してよ!

 

ジャックは私を見た。

私もジャックを見た。

 

私たちは目で通じ合った。

“アーヴィン様は、本気だ”

 

J:…アーヴィン、いくらオーナーであるおまえの命令でも、それは出来ない。

  その娘が気に入らない?

  そんなくだらない理由で、俺にそんな面倒な仕事をさせようと言うのか?

 

I:くっ…くだらなくなんてないよ!

  ……なな、なんだよ、ジャック、その態度…。

  ジャックは僕の人形だろ?

  ににに、人形のくせに、オーナーの僕に逆らうわけ!?

 

J:………!

 

ジャックは押し黙った。

 

ジャックは、「人形はオーナーに生きる代償を払わなくてはならない」と言っていたわ。

ジャックがアーヴィン様の命令に従うなら…私は、ジャックに殺されてしまう!?

 

J:……おまえの人形であるある以上、俺はおまえのために働くことは義務だと思っている。

  だが、この命令は拒否する。俺はこの娘を殺さない。

  殺したければ、アーヴィン、おまえが自分の手でやるのだな。

  もっとも、おまえにそんな度胸があればの話だが。

 

I:……!!

 

ジャックの侮蔑を込めた言葉に、アーヴィン様の顔がみるみる青ざめる。

私は、ただ2人を見守ることしか出来なかった。

 

I:……………。

  ……わ、わかったよ、ジャック。

  い、今の命令は取り消すよ。

  か、彼女は殺さなくていい。

  …もう、い、いいよ…。

 

………………。

とりあえず…安心していいのかな…?

 

I:で、でも。

 

「でも」?

 

I:でも、ジャック。

  ジャックには、ぼ、僕の命令に背いた罰を受けてもらうよ。

 

J:……!

 

え?

「罰」?

 

I:…い、いいよね、ジャック。

 

J:………………。

  良いも悪いもない。俺はおまえの人形だ。

  おまえが罰すると言うならば、俺は受けるしかあるまい。

 

「受けるしかない」って…そんな…。

ジャックは悪くないのに…!

 

I:…ねえ…アストリッド。

 

主:は…はい。

 

突然自分の名前を呼ばれ、私はドキッとした。

 

I:さっきのは、じょ、冗談…冗談なんだ…。

  び、びっくりさせて…ご、ごめんね…。

  あはっ…あはは…。

 

アーヴィン様は笑っていらした。

 

………………。

………そう、よね…。

人殺しなんて…そんなこと…本気で命じるわけないわ…。

 

私は自分にそう言い聞かせたけれど。

アーヴィン様への不信感を完全に消すことは出来なかった。

 

I:…アストリッド。もう、か、帰ってもらえないかな…。

  な、なんだか…僕、つ、疲れちゃったよ…。

 

〔暗転〕

私は、アーヴィン様のお屋敷を出た。

 

 

〔暗転明け・街〕

家路をたどりながら、私はさっきの出来事を思い返していた。

 

さっきの出来事。

アーヴィン様がジャックに私を殺すよう命じたこと。

 

アーヴィン様…どうして突然、あんな無茶なことをおっしゃったの…?

私、そんなにアーヴィン様の反感を買うようなことをしたのかな…。

アーヴィン様に反論したから?人形は人間の奴隷じゃないって。

 

でも、そんなの、殺されるほどの理由ではないような気がした。

 

それともアーヴィン様が最後におっしゃったように、本当にただの冗談だった?

…もっとも、ぜんぜん笑えなかったけれど。

でも、結局、その命令は取り消されたわけだし…。

 

……………。

 

考えたところでわからなかった。

 

でも、それ以上に気になることがあった。

アーヴィン様はジャックに罰を与えると言った。

アーヴィン様は、ジャックに何をするつもりなんだろう…。

 

 

〔リード邸・リビング〕

G:……………。

 

S:それは酷い話だな。

 

私は、今日の出来事を叔父さまとジルに話した。

 

S:そもそも命令の意味がわからないよ。いきなり人を殺せだなんて。

  そりゃあ、困っただろう、人形の彼も。

 

主:ええ。ジャックが拒否してくれたから事なきを得たんだけど…。

  でも、アーヴィン様も本気じゃなかったと思うの。

  だって、結局は命令を取り消されたんだもの。

 

S:仮に冗談だったとしても、ちょっと許しがたい冗談だな、それは。

 

主:……………。

 

S:そういう情緒不安定なオーナーだと、人形も苦労するね。

  なあ、ジル?

 

G:………………。

 

話しかけた叔父さまに、ジルは答えず。

 

G:………………。

 

〔ジル退場・ドアの開閉音〕

 

そのままリビングを出て行ってしまった。

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

(2)

〔黒背景〕

身支度を整えた私は、部屋を出て玄関に向かった。

 

〔廊下〕

G:アストリッド。

 

あ、ジル。

 

G:出掛けるつもりなのかい?

 

主:ええ。

 

G:もしかして、ジャックのところかな?

 

私は頷いた。

 

主:アーヴィン様はジャックに罰を与えるっておっしゃったわ。

  私、昨日からずっと気がかりで…。

  たぶん、私が心配するほどのことはないって思うわ。でも…。

 

G:……私も同行しよう。

  昨日の話からして、君を1人で行かせるのは心配だ。

  それに、あらかたの予想はつくが……ジャックのことも気がかりだからね。

 

…?

「あらかたの予想はつく」?

…どういうことだろう…。

 

G:さあ、出掛けようか、アストリッド。

 

 

〔ベックフォード邸・外観〕

…とにかく来てしまった。

だけどよく考えたら、ジャックに会わせてもらえるのだろうか?

と、思ったのだけれど。

特に問題なく、取り次いでもらえた。

 

 

〔黒背景〕

私たちは昨日と同じ部屋のドア前まで、従僕らしき男性によって案内された。

でも彼の仕事はここまでだったらしく、この部屋でアーヴィン様を待つように告げると、彼は私たちを置いて行ってしまった。

 

その対応に少し素っ気なさを感じながらも、言われた通り私はアーヴィン様を待つべく部屋のドアを開けた。

 

〔ドアの開閉音〕

 

 

〔応接間〕

J:……………。〔無表情・首輪をつけている〕

 

主:ジャック!

 

部屋では、ジャックが1人立っていた。

 

主:ジャック、昨日はごめんなさい。

  私のせいであんなことに…。

 

J:……………。〔無視〕

 

主:…ジャック?

 

ジャックの様子がおかしい。

ジャックは決して愛想がいいわけではない。

だけど、こちらを見ようともしないのはあきらかにおかしかった。

 

主:ジャック、どうしたの?

  ねえ、私の声、聞こえてる?

 

ジャックは、耳が聞こえていないようだった。

それに、目も見えていない…?

………もしかして、今、ジャックは休眠中なの?

だったらこの状態もわかるけど…。

 

でも、それはそれとして。

 

J:……………。〔首輪をつけている〕

 

どうして首輪なんかつけてるの?

 

G:…………。〔悲しげな顔〕

 

〔ドアの開閉音〕

 

I:いい、いらっしゃい。

  毎日会えるなんて…う、うれしいな…。

 

部屋に入って来たアーヴィン様は笑っていらした。

でもそのご様子は、訪問をよろこんでくださっていると言うよりも、少し興奮していらっしゃるように見えた。

 

主:突然うかがって申し訳ありません。

  あの…アーヴィン様、ジャックはどうしてしまったのですか?

  さっきから様子が…。

 

I:…ジャックは今、ぼ、僕の“犬”なんだよ。

 

主:犬?

 

I:ジャック、い、犬が二本足で立ってるのはおかしいだろ?

  さあ、よ、四つん這いになるんだ。

 

J:…………。

 

ジャックは無言で体を折ると。

床にぎこちなく、両手のひらをつき、膝をつき、四つん這いになった。

 

……うそ。

 

私は自分の目を疑った。

 

I:さあ、ジャック。け、今朝の続きをして遊ぼうか?

  ほら。

 

そう言ってアーヴィン様は、ポケットから何かを取り出し、部屋の隅に投げた。

アーヴィン様が投げた物。それは、ぼろきれを寄せ集めて、棒状に糸でひとまとめにしたものだった。

 

I:ジャック、あ、あそこの玩具を拾っておいで。

 

…え?

これって…まるで…。

 

J:……………。

 

アーヴィン様の命令に、ジャックは立ち上がろうとした。

 

I:ダメだよ、ジャック!

  さっきも言っただろ?い、犬は四つん這いだよ…。

 

J:…………。

 

ジャックは再び四つん這いになった。

そしてそのまま、ぎくしゃくとした動きで部屋の隅へと向かい。

ぼろきれの塊に手を伸ばした。

 

I:違うよ、ジャック!

  い、犬は手でなんか拾わないよね?

 

ジャックは、再び四つん這いに戻り。

床に頭を近づけ。

ぼろきれの塊を口にくわえた。

 

主:!!

 

そしてジャックは、そのままアーヴィン様の足元に戻り。

それを床に置いた。

 

I:ど、どう…アストリッド。

  ジャックはなかなか賢い“犬”だろ?

 

主:………!!

 

……これが、アーヴィン様が言っていた“罰”なの?

もしそうなら、人のプライドを踏みにじる、なんて陰湿で悪趣味な罰だろう…!

 

でも、どうしてジャックは、こんなに弱々しくて、アーヴィン様の言いなりになってるの?

昨日のジャックはこんな風じゃなかった。

アーヴィン様の命令に逆らって、皮肉の1つも言うほどだったのに…!

 

主:アーヴィン様、ジャックはどうしてしまったんですか!?

  どうしてこんな…。

 

I:アストリッド。き、君はまだ、精霊人形のこと、なんにも知らないんだね。

  じゃあ、ぼ、僕が教えてあげるよ。

  か、彼を目覚めさせるとき、項のネジを締めたよね?

 

主:は…はい。

 

I:そ、そのことでもわかるように、あのネジは魂の固定に関与しているネジなんだ。

  奥まで締めなくちゃ魂を定着出来ないし、ネ、ネジを抜けば魂も抜ける…つまり強制的に凍結することもあのネジ1つで出来るんだ。

 

確かにジルを目覚めさせるとき、ネジを締めたけれど。

あのネジを抜くことで精霊人形を…ジルを凍結出来るなんて知らなかった。

 

I:そして、ネジを半開きの状態にすると、れ、霊体が不安定になって、…ああなるんだよ。

 

言ってアーヴィン様は、視線をジャックに向けた。

 

J:……………。

 

ジャックは、虚ろな眼差しのままアーヴィン様の足元に控えていた。

 

おそらく。

オーナーによって与えられた“半凍結”とでもいうべきこの状態は、精霊人形の心と体の自由を奪うものなのだろう。

人間と変わらない心を持つはずの精霊人形を、ただの操り人形に変えてしまう方法…それが“半凍結”なのだ。

そうでなければ、あのジャックがこんな命令に従うなんて考えられなかった。

 

I:た、ただし、魂を宿した人形のネジを開け閉め出来るのは、オーナーに限られるけどね。

 

「オーナーに限られる」

 

…また、オーナーだけ、なのね。

オーナーは自分の人形に対して、なんて重い権限が与えられているのだろう。

 

I:…さあ、ジャック。

  か、彼女に挨拶するんだ。

  ぼぼ、僕に隠れて会ってたくらいなんだから…き、君は彼女が好きなんだろ?

  い、犬が好きな人間に挨拶するときって、どどど、どうするかわかるよね?

 

J:…………。

 

ジャックは、四つん這いのまま、たどたどしく私に近づいてきた。

 

そして、私の足元までやって来たとき。

突然、立ち上がり。

 

G:…!

 

倒れるこむように、私に抱きついて。

私の頬に、冷たい舌を這わせた。

 

主:いやっ!やめてっ!!

 

驚いた私は、思わずジャックを突き飛ばしてしまった。

 

〔派手な転倒音〕

 

主:!!

  ジャック!!

 

J:………………。

 

ジャックは床に仰向けで倒れていた。

 

確かに、つい力いっぱい突き飛ばしてしまったけど…こんなに簡単に倒れるなんて…!!

 

いともたやすく倒れたジャックに、私は動転していた。

 

主:ごっ…ごめんなさい、ジャック。

  大丈夫…?

 

J:………………。

 

私の声が聞こえているのかいないのか。

ジャックは私の方を見ようともしなかったけれど。

眉をきつくしかめたジャックは、後頭部を押さえながら上体を起こし、無言のまま再び四つん這いの姿勢に戻った。

 

I:…か、彼女を怒らせちゃったね、ジャック。

  そ、そういう、無礼をはたらく犬には罰が、ひ、必要だね。

 

そう言うと、アーヴィン様はサイドテーブルの引き出しから短い鞭を取り出した。

 

…まさか…。

 

〔風がうなる音〕

〔鞭打つ音〕

 

J:…っ!

 

アーヴィン様が鋭く振り下ろした鞭は、ジャックの肩を打った。

そして、再び鞭は振り上げられ

 

〔風がうなる音〕

〔鞭打つ音〕

 

J:…っ!

 

ジャックの肩を打った。

 

私は、思わずジルを見た。

 

G:…………。〔目を逸らしている〕

 

ジル…!どうして、アーヴィン様を止めてくれないの?

ジャックが…仲間がこんな目にあっているのに、なんとも思わないの…!?

 

再び鞭が振り上げられ。

振り下ろされたとき。

 

私は。

ジャックの前に飛び出していた。

 

主:っ…!!

 

肌が引き裂かれるような激痛に、私は短い悲鳴を上げた。

 

G:!!

 

鞭は、私の背中を打っていた。

 

I:…え…ええっ!?

  …どっ…どうして…!?

  ど…どどど、どうしよう…。ねえ…き、君…だだ、大丈夫…?

  あああ、ど、どうしよう…。ねえ、きき、君…お、怒ってる…?

  お、怒ってるよね…どどど、どうしよう…。

 

アーヴィン様はとても動揺していらした。

 

G:…ベックフォード子息。

 

初めて、ジルが口を開いた。

 

G:子息がご自身の人形をどのように扱われようと、私が口を挟むことではありませんが…。

  私のオーナーに狼藉をはたらくのでしたら、見過ごすわけにはまいりません。

 

ジル…もしかして、怒ってる?

ジルのこんな声音は、聞いたことがなかった。

 

G:…………。〔アーヴィンを睨みつけている〕

 

そして、こんな怖い顔も。

 

G:もし、再びその鞭を我がオーナーに振るうことがあれば…この部屋は子息の血で汚れることとなりましょう。

 

I:へっ?え…えええっ!?

  ぼっ…ぼぼぼ僕は、そそそそ、そんなつもり、こっ、これっぽっちも…!

  ささささ、さっきだって、か、彼女が、か、勝手に、とっ、飛び出してきたんだし…。

 

ジルは一歩、アーヴィン様の前に進み出た。

 

G:…………。

 

アーヴィン様は、後ずさった。

 

I:ごごごご、ごめんなさいっ!

  ほっ、本当に彼女を打つつもりなんてなかったんだ…!

  ねえ、アストリッド…ご、ごご、ごめんね…あ、ああ、あやまるから…おおお、怒らないで…!

  ほ、本当だよ、本当に…ごっ、ごめんなさい…あ、あやまるから…ゆゆゆゆ、許してよ…。お、お、お願いだから…ねえ、アストリッド!

 

アーヴィン様は、今にも泣きだしそうな顔で私を見た。

もちろん、ジルの迫力に気圧されたせいもあると思う。

………だけど…。

アーヴィン様が本当に恐れたのは、人形のジルではなく、オーナーの私だ。

だって、人形はオーナーに服従するということを、アーヴィン様はよくご存じのはずだから。

 

そして、アーヴィン様は。

人形に人殺しの命令を出すことは出来ても。

人形を打つことは出来ても。

直接、人間に手を下すことは出来ない方なのだろう…。

年下で、身分もない、非力な女の私でさえ、アーヴィン様は怖いのかもしれない。

……私が、「人間」だから。

 

主:……アーヴィン様。

  どうか、もう、ジャックを許してください。お願いします…。

 

I:え、ジャック?

  ………ねえ、そ、それでさっきのこと、許してくれるの…?

 

主:私に鞭を振るわれたのは、アーヴィン様のご本心ではないとわかっています。

  私の願いは、ジャックを元に戻していただくことだけです…。

 

I:う、うん。わ…わかった、わかったよ…。

  ジャックを、も、元に戻すよ…それで、本当に、僕のこと、許してよね…ね?

 

私は頷いた。

 

 

〔街〕

私たちは家路についていた。

 

あの後、アーヴィン様はジャックのネジを締めてくれた。

その直後、ジャックは休眠に入った。

1度不安定になった霊体は、休眠によって安定させる必要があるのだそうだ。

休眠から覚めればまた元に戻るのだとアーヴィン様はおっしゃった。

 

嫌な気分だった。

アーヴィン様の残酷な罰も。

ジャックの、あの弱々しい姿も。

そして…ジル。

最後はジルが助けてくれたのだけれど…。

でも…。

 

G:…すまなかったね、アストリッド。

 

主:…え?

 

G:もっと早く彼を止めていれば、君が鞭で打たれることはなかったのに…。

 

私は首を横に振った。

 

主:…………ねえ、ジル。

  私は、自分が打たれたことより、ジルがジャックを助けてくれなかったことの方がショックだった。

 

G:………!

 

主:ジャックは、ジルの仲間でしょう?

 

知らず知らずのうちに、語気が強くなる。

 

主:自分の仲間があんなことをさせられていて、どうして平気でいられるの?

  どうして、ジャックを助けてあげなかったの!?

 

私は、残忍なアーヴィン様、惨めなジャック、そして、事の発端になった自分自身…すべての苛立ちをジルにぶつけていた。

 

G:……………。

  君が、人形とオーナーの関係をどう捉え、この先、どうしていきたいと考えているかはわからないが…。

  これから私が話すことは、事実として君に知っておいてほしい。

 

主:え?

 

G:精霊人形はオーナーに魂を握られている。

  そして魂の意志は、人形の意志を、ひいては身体を支配する。

  だから、最終的に人形はオーナーの命令を受け入れるしかない。

  たとえその命令が、どんなに理不尽であってもだ。

  それが精霊人形という器に生まれついた者の宿命なのだよ、アストリッド。

 

主:………!

 

精霊人形の宿命…。

ジルはそう割り切って生きているのだろうか?

 

G:……………。

 

違う。

ジルは、きっと今、悲しんでいる。

そして、傷ついてもいる。

割り切ろうとして…割り切れないでいるのではないか…そう思った。

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

(3)

〔リード邸・外観〕

ようやく家に着いた。

でも、気分はまだ少しも晴れなかった。

 

 

〔玄関(外)〕

〔少女・後ろ姿〕

…?

誰かいる。

あれ…。

あの後ろ姿…見覚えが…。

 

主:モニカ?

 

〔少女・正面〕

モニカ(以下M):あっ…アストリッド…。

 

一瞬、気まずい空気が流れる。

学院での彼女の冷たい横顔が、私の胸に甦っていた。

 

あの噂が目立って囁かれるようになって以来、モニカは口さえきいてくれなくなっていた。

あの噂のせいで一変してしまった学生生活のことを、私は久しぶりに思い出した。

 

M:あの…アストリッド。

  ごめんなさいっ!

 

主:えっ…?

 

M:本当にこれまでごめんなさい。私、ずっと後悔してたの。

  あなたは何一つ悪くないのに…あなたと仲良くすることで他のクラスメイトから仲間はずれにされるのが恐くて、口もきけなかった。

  でも、今は反省しているの。

  辛いときこそ、助けるのがお友達でしょう?

  あんな噂に振り回されてた自分が恥かしい…。

 

主:モニカ…。

 

M:ねえ、アストリッド。私を許してくれる?

 

私は強く頷いた。

許さない理由なんてあるわけない。

 

主:もちろんよ。

  こうして会いに来てくれて…本当にうれしいわ。

 

M:ああ、アストリッド!ありがとう!!

 

モニカはそう言って、私に抱きついた。

 

あのときは、本当に辛かった。

でも、こうしてモニカは私のところに戻ってきてくれたんだもの。

過ぎてしまったことはもういいわ。

きっとこれからは、これまで以上の友達になれる…。

 

主:さあ、上がって。すぐにお茶の用意をするわ。

 

M:ええ、ありがとう。

  …ねえ、アストリッド。こちらは…?

 

言ってモニカはジルを見た。

 

主:えっ…あ、そうね…。

  えっと…。

 

まさかジルを“私の人形です”って紹介するわけにはいかないわ。

どっ…どうしよう…。

 

G:私は彼女の叔父上の友人でね。

  ここしばらく、こちらの世話になっているのだよ。

  君は、彼女の友人なのかな?

 

M:ええ。アストリッドのクラスメイトで、モニカ・ブラインと申します。

  初めまして。ええと…。

 

G:私はジル。モニカ嬢、どうぞお見知りおきを。

 

M:こちらこそ、ジルさん。

 

G:ところで、私はまだここに世話になって日が浅くてね。

  アストリッドのこともよく知らないのだよ。

  よかったら、学校での彼女のことなどを聞かせてもらいたい。

  ……ああ、いつまでも立ち話ではなんだね。さあ、こちらへ。

 

M:ええ、失礼します。

 

G:………。〔主人公に目配せ〕

 

モニカを招き入れたジルは、私に目配せをした。

 

……………。

どうやら、ジルのおかげでうまくごまかせたみたい…。

私は、ジルとモニカの後に続いた。

 

 

〔リビング〕

モニカはこの街にお婆さまがいるのだそうだ。

それで私と同じように、夏期休暇をこの街で過ごしていたのだった。

 

私たちは時間を忘れておしゃべりに興じた。

 

 

〔玄関(内)〕

M:今日はとっても楽しかったわ。

  思い切ってここへ来て本当によかった…。

 

モニカ…。ありがとう。

 

M:今度は家にも遊びに来て。

 

主:ありがとう。近いうちにきっと行くわ。

 

M:ふふっ。楽しみにしてるわ。

  ………………。〔ふいに顔を曇らせる〕

 

…?

 

M:あのね、アストリッド。

  さっきのあの人ね…。

 

あの人?

ジルのこと?

 

M:なんだか、おかしいわ…。

 

!?

 

M:ご、ごめんなさい。

  初対面の人にそんなこと言うの、失礼よね。

  でも、なんだかあの人って…。とっても綺麗な人だけど…。

  どうしてかな、あんまり関わらない方がいいような気がする…。

 

そう言ったモニカは、はっきりと顔を曇らせていた。

 

でも。

 

M:ご、ごめんなさい。ヘンなこと言って。〔ぎこちない笑顔〕

  じゃ、これで失礼するわ。

 

主:えっ。ええ。また、いつでも遊びに来てね。

 

M:じゃ、また。

 

〔モニカ退場・ドアの開閉音〕

 

ジルへの疑惑の言葉を打ち消すように、笑顔を見せてモニカは帰っていった。

 

……………。

 

ジルが人形だなんて、ばれてはいないと思う。

でもモニカは、ジルが人間ではないことを気配で感じ取っているというの…?

 

主:…まさか。ジルの正体を見破った人はこれまで1人もいないわ。

 

私は小さくつぶやいて、その考えを頭から追い出した。

 

 

〔夜・主人公の部屋〕

今日は1日、いろいろなことがあった。

 

ジャック…アーヴィン様…ジル…、そしてモニカ。

モニカと仲直り出来たのはうれしかったけれど。

モニカの“彼には関わらないほうがいい”という言葉は、ベックフォード邸での出来事ともあいまって、私の精霊人形に対する漠然とした不安を煽った。

 

……………。

 

…ううん。大丈夫よ。

アーヴィン様はジャックを許してくださったし。

ジルは私を守ってくれたわ。

あのときのジルは怖かった。

でも、普段穏やかなジルが、私に振るわれた鞭に怒りを感じてくれたことを、私はうれしく思った。

……たとえ、私が彼のオーナーであるからこそ、感じた怒りであったとしても。

 

そうよ…大丈夫。

精霊人形はとても不思議な存在で…不安に思うこともあるけれど。

でも、大丈夫…。

 

私は自分にそう言い聞かせて、部屋の明かりを消した。

 

 

<翌日>

 

〔リビング〕

S:今日は…ジルの“あの日”か。

 

主:ええ。もう、ジルはお部屋で待ってるわ。

 

“あの日”…接蝕日のことだ。

 

主:叔父さま、今回は?

 

この間は接蝕に叔父さまも立ち会ってくれたのだ。

 

S:んっ?……今回は、というより、もう様子はわかったから遠慮するよ。

  んー…。なんていうかな、アレはなかなかプライベートな行為だな。

  他人が目にしてはならないものって感じが…。

 

???

 

叔父さまの言い方は少し気になったけど、とにかく、もう立ち会う気はないみたい。

 

主:じゃあ、行ってきます。

 

 

〔ジルの部屋〕

主:じゃあ、始めましょう。

 

G:…そうだね。

 

この間と同じように、ジルは私の前で屈み、床に片膝をついた。

 

私はジルの額に左手のひらを置いた。

 

目を閉じて、ジルに意識を集中する。

 

まもなく、あの乾くような感覚が私の内側に這い登ってきた。

 

と、そのとき。

 

?:…………。

 

息の音が聞こえた。

 

ジル…?

 

意識はジルに向けたまま、私は目を開けた。

 

G:…………。

 

ジルの体は、青白く発光していた。

その淡く冷たい光は、雨の夜、ランタンの中で燃えていたあの不思議な炎を私に思い出させた。

 

G:…………。

 

呼吸音はジルのものだった。

ジルは、深く肩で息をしていた。

 

人形はしゃべるために呼吸をするけれど、生きていくためには呼吸をしない。

それなのに、今、こうして深く息をしているということは。

やはり精霊人形にとって、接蝕がとても特別な行為だということなのだろうか…?

 

ジルは眉を開き、私を見上げていた。

焦点がよく合っていない虚ろな目で。

“恍惚”…そんな言葉が頭に浮かんだ。

 

人間が食事によって空腹を満たすように、睡眠によって休息を得るように。

精霊人形は接蝕によって生命を充填しているのだ。

 

私を見上げるジルはまるで無防備で。

身も心も、すべてを私に委ねきっているかのようなその様子は、どこか幼ささえ漂い。

姿こそ同じでも、今の彼は普段の彼とはまるで別人のようだった。

 

私は、彼の秘密を覗き見ているような気持ちがした。

そして彼の渇きを癒せるのは私だけなのだという思いは、私の胸を甘く締めつけた。

 

………どれくらいそうしていただろう。

やがてあの感覚が去り、ジルを包んでいた淡い光も消えた。

 

主:ジル…?

 

私は呼びかけた。

 

G:……………。

 

返事はなかった。

 

もう、眠ってしまったのね。

 

私はジルの額から左手を離した。

少し乱れた、彼の前髪を整える。

空を見つめるジルに私は言った。

 

主:おやすみなさい…ジル。

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

(4)

〔リビング〕

私とジルがアーヴィン様のお屋敷を訪ねてから、数日が経っていた。

 

アーヴィン様のおっしゃった通りなら、とっくにジャックは元に戻っているはずだったけれど。

私が顔を出すことで、またアーヴィン様のご機嫌を損ねるのではないかと思うと、行って確かめることは出来なかった。

 

〔呼び鈴〕

あ、お客様?

 

私は玄関に向かった。

 

〔玄関(内)〕

J:……………。

 

玄関に立っていたのはジャックだった。

 

主:ジャック!元に戻ったのね?

 

J:ああ。

 

ジャックは私を見て、私に答えた。

よかった…。いつものジャックだわ…。

 

主:あ、そうだわ。

  ジルを呼んでくるわね。

 

J:いや。その必要はない。

 

主:え?

 

J:俺は、アストリッド、おまえに用がある。

 

主:私?

 

そう言うとジャックはこっちに向かって歩いてきた。

 

J:………。

 

そして、私の目の前で足を止めると。

 

主:!

 

いきなり私に抱きついてきた。

 

主:えっ?

  なっ…何?ジャック!?

 

私は混乱していた。

何?どうしてこんなことになるの!?

 

主:やっ…やめて!

 

とっ…とにかく、この腕から逃げなきゃ…!!

 

私はジャックの腕の中で必死にもがいたけれど。

この間のように、簡単に彼を押し返すことは出来なかった。

 

J:………。

 

そんな私の抵抗など意に介せず、ジャックの手は私の背中を、わき腹を、這うように動き。さらに、彼の冷たい頬が、自分の首元に強く擦り付けられるのを感じた。

 

主:!?

 

その動きには、単に私を逃がすまいとしているだけではない、別の意図が込められているように思えて…そしてそれは、これまで経験したことのない種類の危険だということに、私は強い戸惑いと、気分が悪くなるような不安と恐怖を覚えた。

 

主:…放して…!

 

声が震えていた。

 

主:お願い…放して…!!

 

震えて、思うように声が出ない。

 

ジャック…どういうつもりなの!?

いや……怖い。

怖い!!

 

J:……?

 

と、ふいに。

私を抑えつける力が弱まった。

 

G:……………。〔ジャックを睨みつけている〕

 

ジャックの肩越しに私の目に入ったのはジル。

ジャックの背後に立ったジルは、私を捕らえていたジャックの右腕をつかんでいた。

 

J:………何だ。

 

G:今すぐ、我が姫を放すことだ。

  でなければ。

 

言ってジルは、ジャックの腕を彼の背中で捩じ上げた。

 

J:………っ!〔一瞬顔をしかめる〕

 

G:このまま君の腕をへし折る…!

 

…ジル!

 

J:…………。

 

ジルの言葉にジャックは答えず。

 

G:…………。

 

ジルもまた無言で。

 

しばらく沈黙が続いたけれど。

 

J:……。

 

結局、ジャックは腕をほどいてくれた。

 

と、同時に、私はジルの元に引き寄せられた。

 

G:大丈夫かい?アストリッド。

 

主:え…ええ。

 

……いったい、なんだったの…?

 

G:ジャック。とりあえず、君が元に戻ったことは喜ばしいと言っておこう。

  だが、今の無礼はどう説明してくれるのかな?

  彼女が君をかばったことは君も知っているはずだ。あんな状態でも、人形の五感は働いているのだからね。

  …君独自の発想は、君の個性として私も尊重したいと思っているが…。

  返答次第では、私もそれ相応の対応をしなくてはならない。

 

ジルの態度はいつものように落ち着き払っていた。

だけど、心中は決してそうではないような声色だった。

 

J:…………ジル。

  おまえは、その娘を腕に抱いたことがあるか?

 

G:!?

 

J:その娘は面白いな。

  その娘を抱くと、単なる皮膚感覚以外のものを感じる。

  アーヴィンの命令で抱いたときには、錯覚かと思ったが…どうやらそうではないようだ。

 

……?

「皮膚感覚以外のもの」って…?

 

G:……ジャック。姫の前で、そういう不埒な言動は厳に慎んでもらいたい。

  私のオーナーは、君のオーナーと違って人形にやさしいのでね。

  君のような無礼極まりない人形でも、心からその身を案じ、胸を痛めていたのだよ。

  だが、君のその姿を見て安心したことだろう。

  もう君がここにいる理由はない。即刻、引き取ってもらおう。

 

J:……ふっ。

  実のところ、もう一度その肌の感触を舌で確かめたいと思っていたが…。

 

!!!!!

 

G:!?

 

J:まあ、いいだろう。

  ジル。その娘の人形である以上、おまえにはそいつを守る義務がある。

  その義務を怠らないことだ。

  その娘は、俺にとっての興味の対象であるだけでなく、精霊人形にとっての“可能性”なのだからな。

 

G:…!!

 

J:では、また会おう。アストリッド。

 

〔ジャック退場・ドアの開閉音〕

 

そう言うと、ジャックは私たちの前から立ち去った。

 

G:…………。〔ため息〕

  アストリッド、すまないね。

  このところ君には、精霊人形のことで嫌な思いをさせてばかりだ。

 

主:…ううん。

  さっきはその…びっくりしたけど…とにかくジャックが元に戻ってよかったわ。

  ……でも…。

  ねえ、ジル。

  私が精霊人形の可能性って…どういう意味?

 

G:…………。

 

ジルは黙った。

 

ジルは何か知っているの?

……そう言えば。

イグニスが別れ際に言ったことも、今のジャックの言葉と…もしかして重なっている?

 

S:なんだか、玄関がにぎやかだったけど。

  お客さんだったの?

 

黙り込んでいた私たちに声をかけてきたのは叔父さまだった。

 

主:あ、叔父さま。

  今、ジャックが来てたのよ。

 

S:えっ!ジャックって、精霊人形のジャック!?

 

主:…ええ。

 

S:もう帰っちゃったの?

 

主:ええ。

 

主:なんだ、上がってもらえばよかったのに。

  僕も会いたかったなあ。眼鏡の精霊人形。

 

G:…………。〔苦笑〕

 

………………。

………とりあえず。

今しがたあった騒動のことは、叔父さまには黙っておこう…、うん。

 

ジャックが元に戻ったことは素直にうれしく思ったけれど。

彼の言葉と行為は、私の胸に疑問と不安を残した。

 

 

第4章へ